Billboard Magazine (2005)

Century Awards 受賞にあわせて Billboard 誌に掲載された TP のインタビュー(公式サイトに掲載された未公開部分含む)。これまでのキャリアを振り返る、なかなか興味深い内容です。

A Portrait of the Artist,
Billboard’s 2005 Century Award honoree Tom Petty talks about his life in music.

Billboard Magazine 2005年12月3日号

“Breakdown”や”I Need To Know”などの初期のシングル曲は、あなたのキャリアの特徴を決めたと思います。とても美しいラブソングやバラードなどがあるのにシングルとして発表されなかったのは何故ですか?

後になって腹が立ったことなんだけど、レコード会社はいつもアップテンポでエレクトリック・ギターが入ってる曲を(シングルとして)選んでいたんだ。FM(ラジオ)が衰退する直前の頃は相当イライラしてたよ。FMラジオ局は、ギターソロがなければ、その曲を要らないと考えてたんだ。”Angel Dream”は、僕が書いた曲の中でもベスト10に入るんだけど、完全に見逃されているよ。(中略)

実際、”Free Fallin'”までバラードのヒットはなかったと思うよ。それについても、当時は意見を言ってくる人がいたのを覚えてるよ。Saturday Night Live[TV番組]に出たとき、当時のシングル曲は”I Won’t Back Down”だったんだけど、僕たちは”Free Fallin'”を演奏したんだ。そうしたらMCA [当時のレコード会社]は僕に対して激怒したんだよ。

だけど僕としては、「”I Won’t Back Down”は既にヒットしてるから、みんなが期待してないものを演奏しよう」と思ったんだ。演奏したことが後に(”Free Fallin'”のヒットに)役立ったことは間違いないんだけどね。時には、自分が正しいと思うこを貫く必要があるってことだね。

あなたの作曲能力は天性のものだと思いますか?

ああ、絶対そうだよ。才能だと思うよ。だって、他の人と違って僕が曲を書けるというのはどうしてだろう、と思うんだ。しばらくして、「自分は本当に恵まれてるんだ。こういう曲を書くことができて、僕自身も幸せだし、何百万人もの人たちをも幸せにすることが出来るんだ」と気づいたんだ。これは名誉なことで、僕の個人的範疇を超えてるよ。

作曲は僕が知ってる唯一のマジックなんだ。帽子の中からウサギを出すんじゃなくて、本物のね。他の人たちに魂を伝える、ということなんだ。

『Damn The Torpedoes』がヒットしたとき、あなたの認知度は一気に上がりましたね。そのような名声は望んでいたことでしたか?

そうだね。こういうことをしてる人だったら、口で何と言おうとも、実際には名声が欲しいものだと思うよ。あれだけ頑張った後に有名にならなかったら、僕はとてもがっかりしただろうね。

『Hard Promises』で、MCA(レコード会社)は、(レコードの)定価を$1上げて$9.98にしようとしましたね。値段を上げることを拒否して、MCAと公的な争いとなりました。何故そのような立場を取ったんですか?

それは、僕のが最初の$9.98のレコードになりそうだったからだよ。全て(のレコード)を値上げした張本人になるところだったから、「そんなことを僕にしないでくれ、するなら Olivia Newton-John か誰かにしてくれ、でも僕にはしないでくれ」と思ったんだ(笑)。で、次第にそれが重要な争いになってきて、プレスも興味を持ち始めたのさ。結局、僕達はそれを乗り切って、最終的に主張が通ったんだ。

音楽というのは、手頃な価格でなくてはいけないんだ。音楽を支えているのは一般の人であって、そういう人たちの手を離れてしまったら、エリートの人たちだけの物になってしまうんだよ。

自分のキャリアを失うことを心配しましたか?

キャリアが終わることは心配しなかったけど、ボコボコにされてるようで、ただただ疲れてしまった日々もあったよ。MCAは事を決して楽にしてくれなかったからね。一番最後の訴訟が終わったら、もう二度と関わりたくはなかったね。それが終わった時、僕たちは祝うどころでなく、ただただ疲れ果てていたんだ。レコード業界に対する全ての興味を失って、レコードを(会社に)手渡すこと以外のことを二度としたくなくなったよ。現在に至るまで、レコード業界に対する興味は持ってないよ。

1982年の『Long After Dark』は、MTV の誕生と同時でした。このビデオ・チャンネルは、あなたをどう変えましたか?

当時、MTV は商品を欲しがって仕方なかったから、1枚のアルバムで 3、4本のビデオを作っていたんだ。すると突然、TVに僕たちの作品が沢山出て、街中での認知度が上がったんだ。1年に1回出ていたのが、一日中出てるいようになった。人々はいつも見ていたから、僕たちはそれをうまく活用したんだ。楽しかったね。

その傾向は1985年の『Southern Accents』に続きますよね。”Don’t Come Around Here No More”を語る上で、ビデオや「不思議の国のアリス」のことを考えないわけにはいきません。あの曲に対するバンドの反応はどうでしたか?

Mike はあまり気に入ってなかったと思うよ。レーベルもひどく嫌ってて「一体これは何なんだ?」って感じだったよ(笑)。あれは、「よし、これからシングルを作るぞ」と僕が言って(曲を仕上げた)唯一の時だったね。だから、それがうまくいったことはすごく満足だった。うまくいくのに、ビデオはとても大きな役割を果たしたよ。最高のビデオだね。

“Southern Accents”では、1981年に亡くなった、あなたの母親について歌っています。あなたは、(故郷の)ゲインズヴィルで大きな混乱を引き起こしたくないからと葬儀に行かなかったのですが、それは悲しい有名税ですね。

ひどい混乱を引き起こすことは分かっていたよ。実際、出ることが賢明でないと言い出したのは弟なんだ。今でも、僕が実家に行くと、皆は正気を失うからね。そういう場じゃないのに、サイン会になったり、カメラが出てきたりするのは嫌だったんだ。

大体、葬式は好きじゃないんだ。葬式に出なかったからといって、何かを失ったとは思わないよ。母への追悼の気持ちは自分の中で(対処)したよ。

あなたの失った人が余りにも多いことに驚きます。両親に加えて、一緒に働いてきた人々、例えば Roy Orbison、Del Shannon、Michael Kamen、George Harrison、そして Howie Epstein です。これはあなたの曲作りに影響を与えたのでしょうか。

それはありえるね。多分、僕の生き方に影響を与えたと思うよ。一日たりとも無駄に出来ない、ということに気付かされるんだ。George のことには落ち込んだよ。George が死ぬことがあるなんて考えていなかった。あまりにも心をえぐり取られて、未だにそのことを考えることは出来ないんだ。

Roy Orbison が亡くなったときのことは覚えているよ。その当時、逝く準備が出来ていた人がいたとしたら、それは彼だった、と思ったんだ。彼は、精神的にも宗教的にも良い状態にあったからね。しかし、逝く準備が出来てなかった人もいるよ。Howie は準備出来てなかったよ。こういったことから…生きていて幸運だということ、生きていることに感謝するべきだと考えるんだ。

その中で最も大きい(衝撃で)、そして未だに思い悩むのは母親のことだ。彼女は、夢見ていたことの全てを手に入れることが出来たにもかかわらず、それが叶わなかったんだ。そして、(亡くなった後では)それに対して代償を払うことが出来ないのが、自分にとって一番苦しいことなんだ。

幸いなことに Bob Dylan は健康の危機を乗り越えました。1986年、Heartbreakers は彼のバックバンドとして活動しましたが、当時のことで何か覚えていますか。

(Dylanとのツアーから)戻ってきたとき、自分たちがツアー前よりも良いバンドになったことが分かったよ。Bobは、頭の中にとてつもない曲のライブラリーを持ってるんだ。ポップ、フォークから水夫の歌までだよ。テル・アビブ(イスラエル)では、”Go Down Moses”(*1)がオープニングだったよ。「この場でやり遂げなければいけないことを何でもやり遂げることが出来る」という自信を持てるようになったよ。

1) 旧約聖書および米国の奴隷解放について歌われた霊歌。実際は、1曲目でなく最後の曲でした。ツアー初日(1987年9月5日)に演奏したということを指している可能性も有り。


Dylan とのツアーから戻った休みの途中、1987年に放火の被害に遭いましたよね。それは、あなたの将来にどのような影響を与えましたか。

それ以降、怒りに関するどんなものにも関わりたくなくなったんだ。同じような暴力行為に巻き込まれた人だったらそうなると思うよ。現実に経験してきたから、(暴力的な)映画なんかを観る気がしなくなったんだ。単純に面白いって思えなくなったからね。誰かが人を殺そうとしたとき、「僕が何をしたんだ?」と、全てのことを改めて考えるよね。そして(しばらくして)「僕は何も悪くない。偶々誰かの狙いの的になっただけだ」と考えるわけさ。

その火事の影響で、その後の作品(*1)は最も軽いものとなりましたね。

間違いないよ。死にそうになったけど、僕の家族みんなが助かって、ただただ良かったと思っていたよ。嬉しくて、ただただ幸せだったんだ。

しばらくして、あなたと Jeff Lynne は最初のソロ作品、『Full Moon Fever』に取り掛かりました。あなたがMCA(レコード会社)に提出したものの、MCAが嫌ってたというのは本当ですか。

作品が却下されたのは、僕の人生の中であの時だけだったよ。愕然としたよ。僕はあの作品に自信満々だったから、「一体何が悪かったんだよ?」って考えたよ。彼らは「ヒット曲が見当たらない」って言ってたんだけど、結果として4、5曲がヒットして、僕が経験したなかでも最も大きいものとなったんだ。

アルバムが永遠にお蔵入りするのでは、と気にしていましたか。

「これはあまりも馬鹿げてる。僕はこんなに良いレコードを作ったのに、彼らは要らないなんて…」とひたすら思ったね。でも、だからといって次の作品は作らなかったよ。(Traveling) Wilburys に加わわって、この作品は棚上げしていたんだ。それは、ちょうど僕が Warner Brothers Records と契約したときの話だったよ(*2)。

僕たちは Mo Ostin(*3)の家に行って、その夜、Wilburys で “Free Fallin'”を演奏したんだ。その場にいた Lenny Waronker(*4)が「すごい曲だ」と言うから、「そうだよ、でもレーベルから却下されたんだよ」って言ったんだ。Mo は「おい、それだったら僕が契約して出してあげるよ、今すぐ契約しよう」と言ってきた。だから僕は「Mo、契約成立だな」って言ったんだ。

でも、『Full Moon Fever』は MCA から発売されたんですよね。

(MCAとの)契約が切れたときに僕たちは Warner Brothers と契約して、そのことを公表してなかったんだ。でもそのうち、(MCAの)沢山のお偉方さんたちが出入りして、同じレコードを持ち帰って、「これの方が良いな。これだよ、ウチで出そう」と言ったんだよ。

その中から”I Won’t Back Down”がヒットしましたね。あなたのことを活動家と思ってなかった人も、「You can stand me up at the gates of hell, but I won’t back down」の一節の後では、そう見なすようになりましたね。

ちょっと恥ずかしかったよ。「これは出すべきか?」と自分で思ったんだ。あまりにも直接的な表現で、この曲では隠れる余地がなかったからね。(でも)Jeff も Mike(Campbell)も気に入ってたよ。最終的に決断させてくれたのは George Harrison だった。彼はギターを弾きながら歌って、そして僕を横に呼んでこう言ったんだ。「これは本当に良いよ。僕はこの曲が本当に好きだ」とね。それで「もし、皆が気に入ってくれるならば、僕はこの曲を出そう」と思ったのさ。

いやー、この曲がどんな影響を与えたか、どんなに沢山の人々に応用されたか、皆が語ってくれたことを一日中話していたいくらいだよ。そのことで、比喩なんかあまり気にしないで、はっきりと語るのが正しい場合もあると気づかされたんだ。

1) 文脈からいくと『Let Me Up』を指しているように思われますが、放火のあった時点(87年5月17日)ではアルバムは既に完成していてました。(インタビュアーの誤解とTPの記憶の曖昧さによるものでしょうか?或いは『Full Moon Fever』を指しているのでしょうか??)
2) 『Full Moon Fever』却下~Warner Brothers との契約に関しては、多少事実と違うようにも思われます。
3) 当時の Warner Brothers Records 会長。
4) 当時の Warner Brothers Records プロデューサー、後に社長に就任。


バンドがあなたに拒否権を出すことはあるんですか?

それはないね。もし僕に反対意見が十分出たら、僕の決断を変えるのに大きな力とはなるだろうけど、拒否権を出すことはないと思うな。これまでも、「彼ら vs 俺」という状況になったことはなかったと思う。民主主義ではあるけど、僕のやり方は守ってほしいんだ(笑)。

『Into The Great Wide Open』では、あなたと Heartbreakers が再び合流しました。あなたのソロと Wilburys の作品からの楽観主義は続いていましたね。あなたは、それまで大変怒っていたのが…

観察力が高まったのかもしれないね。『Into The Great Wide Open』は80年代の終わりから90年代に入る時期で、(その変化に)対応しようとしてたのかもしれない。湾岸戦争が始まっていて(*1)、それはレコードの一部に影響したと思うんだ。”Learning To Fly”の「the sea may burn (海も燃えるだろう)」という歌詞は、油田の火災から採ったんだ。この曲は救いがあるような曲にしたかったんだ。文字通りではなくて、非常に曖昧な形で、だけどね。

MCA最後のアルバムは”Mary Jane’s Last Dance”を含むベスト・ヒット集でした。この曲のビデオもあなたの代表作ですよね。Kim Basinger を遺体役にしようと思った理由は何だったんですか?

「死んだ後も傍にいてほしいくらいだったら、相当キレイな人だろうな」と思って、「Kim Basinger が良いんじゃないかな。1日か2日で出来るだろうから、やってくれるか聞いてみよう」と言ったよ。冗談にしてくれてもいいんだけど、遺体でいるには相当な演技が必要なんだよ。決して簡単じゃないんだ。

1994年には、あなたの2枚目のソロ・アルバム、『Wildflowers』が発表されました。ロック調の曲もいくつかありますが、全体的には優雅でアコースティックなメロディが主体ですね。

多分、僕の最高作だ。自分に何が出来るか、その全体像を表わしていると思うからね。『Wildflowers』では、僕の頭に浮かんできたこと全てをカバーしているんだ。あのレコードではエンジニアを酷使したから、1人や2人はバタっと倒れてしまったし、ついて来れない人も何人かいたよ。

ものすごく夜遅い時間に彼らにこう言った記憶があるね、「頼むから付き合ってくれ、そうすればグラミー(授賞式)で会えるからさ」って。で、実際そうなったんだ。お互いにグラミーを受賞して(*2)、彼らのことはとても誇りに思っているんだ。

『Wildflowers』をプロデュースした Rick Rubin は、Johnny Cash のレコードにあなたを誘いましたね。駄菓子屋にいる子供のように大喜びしたのでしょうね。

そうだったよ。『Unchained』にはやられてしまうよ。Heartbreakers が他の人のレコードで演奏した中でも最高の演奏だと思う。だけど、僕たちは彼のためだったら全てを捧げるつもりだったからね。彼のためだったら死んでも良かったくらいさ。

『She’s The One』は、Ed Burns の映画のサウンドトラックとして発表されました。映画では作曲も担当されましたが、今後もしてみたいですか。

いや、あれでやりたいという気持ちから抜け出せたと思うよ(笑)。僕は自分の尻を叩いて頑張ったんだけど、いざ映画を見ると人々は(音楽を聴いてなくて)話し込んでるんだ。僕には(映画音楽のための)時間はないな。他にやることがあるんだ。Ed のことは大好きだし、良い経験を与えてくれたことには感謝しているけど、それは僕がやり続けたいことではないのを学習したよ。

1) アメリカなどの多国籍軍によるイラク攻撃開始は1991年1月17日。アルバム発売日は同年7月2日です。
2) TPが最優秀男性ロック・ボーカル賞、Dave Bianco、Richard Dodd、Steve McLaughlin、Jim Scott が最優秀エンジニア賞(ロック・アルバム部門)を受賞。


アルバム『Echo』では、”Free Girl Now”をMP3で(ネット上に無料)配布しましたね。2日間で18万2千回ダウンロードされました。これは1999年で、(音楽の)ダウンロードが本格的になる前の話です。

面白かったよ、だって Tony(Dimitriades:マネージャー)も僕も、特に許可を得ないでそれをやったからね。「やってみて、どうなるか見てみよう」と思ったんだけど、予想してた以上のことになったんだ。(レコード会社 Warner の重役たちは)とても優しかったよ。「面白かったよ、でもまたやるなよ」って。

2002年の『The Last DJ』以降、あなたと Warner との関係は悪化していった気がします。

その前から悪化していたよ、だってあそこでは政権交代が相次いでたからね。当時、あそこはすごく混乱していたし、僕のことを分かってくれる人も、僕たちがやりたいことを理解してくれる人もいないと感じたんだ。

あの時点で、音楽業界全体がコンピューター化して、安易にポップ・スターを使い捨てる方向に傾いていったんだ。音楽業界のことは詳しく知らないけど、(音楽業界を)題材として、道徳について書くだけの例えが沢山あることは分かっていたんだ。(アルバムを音楽業界の人々に)注目させて、(実は彼らのことを)笑うことは楽しかったよ。(中略) しかし、レコードの評判は悪かった。もう一度(同じことを)やりたいかどうかは分からないけど、やったこと自体は喜んでいるよ。

今後、あなたが音楽を創作しない日が来ることを想像できますか?

僕の妻に聞いてくれよ。僕がスタジオにいるときほど喜んでるときはないって言うよ。(スタジオにいると)僕は有頂天になるんだよ。若さを保てるし、僕のしてることに意味があると感じ続けられるんだ。音楽が僕から湧き出ていることには何か理由があるんだと思うよ。だから、やめるつもりなんてないよ。

TP&HB の最初のアルバムから30周年となります。これだけ長続きしたことは、あなたにとって驚きですか?

(昔は)「もし5年間続けられれば、良い日々だったと思い返せる」と考えていたのをよく覚えているよ。そのうち、「10年続けられれば本当に凄いな」と思って。だから、30年というのは信じられないよね。ここまで長く出来るとは思ってもいなかったよ。

(30年前の) 1976年を振り返ってみると、50歳のロック・シンガーはいなかったんだ。ロックンロールとともに年をとったのは、Chuck Berry と Bo Diddley くらいしか思いつかないよ。それ以外の人は、亡くなったか消え失せたかのどちらかだよ。今、こうやっていられるだけで本当に嬉しいよ。

【Depot Street:vol. 85~89&92】(2006.1-5, 2006. 8) 掲載  翻訳: Shigeyan